呼吸のリズム
―肺呼吸の自然誌より
日常の呼吸―仕事との関係
人はある動作が無理なくできるようになるとき,何らかのコツが身に付くもので,呼吸も自然にできるようになる。
逆に言えば,日常の動作についても我々の呼吸はけして意識することなくスムーズになされている訳ではないことが理解できる。
たとえば初めての大事な仕事の時,息を詰める,息を凝らす,など呼吸のリズムがせき止められる。あるいは一定時間呼吸が止まってしまうこともある。また,息をのみつづけると言うこともあり,そんな時は最後に大きなため息をつく。
三木氏は,以前に比べ,特に今日の世相は労働(息切れ・息詰まり)とレジャー(息つき・息抜き)がはっきりと分けられているが,このことはとりもなおさず呼吸が二分化され,本来の人間の呼吸が仕事の犠牲になってリズムをくずす方向に進んでいると考えている。
よくぼくら教員は,子どもたちに学習と遊びの区別をしろといいます。要するに学習の時は意識を,頭脳を集中させろと言いたいのです。学習の内容をよく理解できるようにするために。ついでに姿勢のことや,態度のことにも言及することがあります。このことは《学習》を中心においたときはある面で正論だと思います。しかし,三木氏の言うような《呼吸》の観点から見たとき,大変危ないことを言っていたのだなという反省が起こります。大人になって仕事に携わってからばかりではなく,子どものうちから,呼吸が学習の犠牲になっていたとしたら,その代償は何をもたらすことになるのでしょうか。
仕事も学習も,ここ200〜300年の間にその形態を大きく変えてきたと思います。その推進力は〈効率〉ということだと思います。仕事面では〈人間の労働力〉を単なる〈労働〉ととらえたために,生産力の向上が至上とされて人間は従属するようになったのです。三木さんのこういう文章を読んで,ぼくは学習もいいけれども,呼吸のことももっと大事に考えなければいけないなと思いました。学習よりももっと基本的な部分です。本当の人権主義とは,現在流布されていることもありますが,こういうことについてもっとよく理解していくことが大切なのではないでしょうか。〈個〉を大切にする視点を見失わずに,〈公〉の部分の負担を考えるべきです。そうでなければ昔の厳しい租税を課す姿勢と何ら変わりありません。
エラの変身―上陸と降海
ここは三木さんの業績の中でも,すごいことが言われている部分のひとつです。
せきつい動物の自然誌の振り返りです。
古生代の後半の大地殻変動の時代,何度となく周期的に「海進」と「海退」がありました。海にいた魚は,干潟に打ち上げられたり海に戻されたりしたと思われます。これは気の遠くなるような回数でぼくらはイメージした方がいいと思います。
このような状態の中で,魚類にはいつのまにかエラの後ろに肺の袋ができてきました。これはエラの腸の壁がふくれあがってできたと言われます。(余談ですが,これは単なる想像ではなくて,解剖や化石研究の結果として言われていることです。なぜできたかの原因はここにはありませんが,結果があります。)
このようにその頃,エラと先の原始肺とをあわせ持った魚類が存在しました。彼らは水と陸の狭間にあって,進むべきか退くべきかと迷い続けたに違いないと三木氏は言います。
そして一部は石炭紀到来とともに敢然と未知の陸に這い上がり,またあるものは陸に上がることをあきらめて,再び故郷の海に戻りました。当然陸に上がったものは陸上のせきつい動物の祖先となり,海に戻ったものは,海の,特に現代の魚類の先祖となったと思われます。
ぼくにはこういう知識がなかったので大変驚きました。進化についてはたぶん高校生のあたりに学習したと記憶していますが,どうもよく分からない,単にテストの対策といった程度の学習しかしなかったように思います。また,授業も面白かったという記憶がありません。知識としてではなく,こういう世界が伝えられていたら,もっと学習というものに対して違った気持ちを抱いただろうなと思います。ぼくらが〈教える〉ことに子どもたちが食いついてこないのは,当然のことと反省しきりです。ぼくたち,いや少なくともぼくという教員は,何も分かっちゃいないんです。
三木さんのような人が先生で教えてくれたら,もう面白くて面白くて熱心に聞き入ったり,質問が止まらなかったりするだろうなと思います。これが勉強ですよね。
さて,三木氏はこれをせきつい動物の「兄弟の決別」のドラマと呼び,上陸組・降海組にわけて肺の循環に焦点を絞って図式化しています。上陸組は代表として両生類→爬虫類→哺乳類の肺循環図を示し,肺静脈がだんだんと太くなってきたことが指摘され,そして最初のエラ穴だけが耳の穴として残るのだと言うことがいわれます。降海組は軟骨類→全骨類→硬骨類と分類され,肺の動静脈が次第にエラと心臓から離れ肺そのものが腸からちぎれて浮き袋になることが図示されています。
三木氏の場合,この図が大変面白いです。謎解きのように文章を図に照らして丹念に照合していくと,本当によく分かってきます。この単純化した図も,生なかでは描けないものだと言うことが分かります。もうこれは直接見てもらうしかありません。
勉強ぎらいのぼくはこんな図は見るだけで頭痛やめまいを感じたものですが,三木氏のものだけは別でした。三木さんの世界が素晴らしいので苦にならないという言い方の方が,的を射ているかもしれません。
ここで言われていることをあらためて考えると,何と,ぼくたちの遠い遠い祖先は魚類(現代の魚類は別)であるし,現代の魚類はぼくたちの祖先とは兄弟の間柄だった当時の魚の子孫であるということです。これは極端に言えば,生物史,せきつい動物史から見て,現代のぼくらとお魚さんは,共通の先祖から枝分かれした,兄弟と言うことにもなるのでしょう。魚屋さんに並べられているいろいろな魚も,こう考えてくるともっと身近なものに感じられてきます。
呼吸のリズム―波打ちの生命記憶
ここでは人間の呼吸や心拍のリズムが,大海原の波打のリズムと深い関係にあるのではないかという推論が披瀝されている。
その根拠は,まず人類の遠い祖先が前述のような上陸と降海の民族大移動に先立って,ある時はエラで,またあるときは肺で呼吸し,波打ち際での生活を数百万年にわたって続けたことが第一にあげられる。つまり,そうした生活の間に呼吸・心拍のリズムが波打のリズムに深い関わりを持つようになったというのである。
また,この呼吸と心拍を結びつける神経中枢が延髄にその座を占めていて,魚が上陸して肺呼吸に変わってもその座を移すことがなかったことから,先のリズムは陸上生活が長くなった今日に至ってもなお我々の中に深く刻み込まれているに違いないというのである。
息切れ―空気呼吸の宿命
この項はまた三木氏の独壇場である。
ここまで,魚の時代のエラ呼吸と肺呼吸は深いつながりがあることが言われてきた。ここではしかし,両者の間に深い溝があることが振り返られる。
すなわち,エラ呼吸を営む筋肉は植物性の内臓筋であるが,肺呼吸ではこのエラの内臓筋は咀嚼,表情,嚥下,発生などを営む筋肉として使われるようになり,首から胸腹にかけての体壁筋が新しい呼吸筋としてかり出されるようになったことが指摘される。
だが,この体壁筋は動物性筋肉と呼ばれ,運動は素早くて力強いが,疲れやすく,休息を必要とする。
本来ならば,肺呼吸もまたエラ呼吸で使われる内臓筋,いわゆる植物性筋肉に委ねることが当然である。この筋肉は心臓の拍動を支える心筋がそうであるように,四六時中働いて疲れを知らない,そういう筋肉だからである。
せきつい動物の上陸というドラマの影に,こうした身体上の重大な変革が起こっていたことは,驚きである。
陸上で生活するために,肺呼吸という手段で適応しようとしたぼくたちの祖先は,しかし,激しい運動をした後に息切れを起こすという肉体生理上のハンディを負うことになった。
息詰まり―横隔膜の功罪
上陸してからの動物は,ある意味で呼吸をすることで精一杯という状態が続いたのではないかと想像される。当然,動きそのものも緩慢であったに違いない。両生類,爬虫類,鳥類,哺乳類へとの進化の道筋は,動きとしてみれば素早い動きを可能にしていく道筋でもあった。
呼吸についてみれば,鳥類の含気骨のように骨の中に空気を蓄える空洞をこしらえる離れ業も見られるが,造化の神の知恵は哺乳類の胸の底に,横隔膜という一枚の筋肉を張りめぐらせることに成功した。
これはしかし,吸気専用の筋肉で,吐気専用の筋肉というものはまだできていないということなのだ。ここから三木氏は,息が入ってくるばかりで,専用の息を吐く筋肉がないことによって息詰まりが起こるのだと理由づけている。それは「当然の結末」であるという。
仕事の歌―息抜きの要領で
さて,最後となるこの項では,三木氏は日本の古来の仕事歌やシルクロードの街道筋に今も見られる村々の井戸端会議の中に,呼気と吸気とのほどよいリズム,調和があるとして,それは宿命的な息詰まりに対する本能的な工夫,私たち祖先の生活の知恵であると述べている。そこに,仕事すなわち息抜き,の図式を見ている。
これに対して,氏は現在の日本のカラオケブームを取り上げ,仕事と分裂した息抜きの象徴であると悲しむ。
そして,「わたしは今日こそこの『仕事の歌』の世界を,日常の職場によみがえらせるべき時ではないかと思っているのです。」と述べている。
うまく言えないがぼくには氏の心情がよく分かる気がする。誤解を恐れずに言えば,仕事と遊び,そこに区別のない世界が本来的だということだ。子どもの教育の観点から言えば,学習=遊び,と考える立場と共鳴する。
これはとても魅力的な考え方だと,ぼくは思う。そして幾分かぼくも本気でそう考えている。しかし,どこか危うい所がある。それはこうした考えが文明の批判に結びついたり,昔に返れという主張に結びつく場合である。ぼくはそこは違うだろうと思う。
今のところ,個人的に快適さを求める工夫として,こういう考えを実践してみるという程度でいいのではないか。
息を詰めると言うことは,マジになるからである。四六時中マジになっているとそれこそマジ切れになるおそれがある。息詰まりを強いてくる現在というシステムの存在に一人一人が気づき,その解消のしかたを工夫する,それ以外に方法はないし,一人一人にその力は備わっていると,ぼくは思う。
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